忍者ブログ

forbidden

観的には大事なモ

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

観的には大事なモ

あきらめ切るにも、自宅は目の前にある。
行動に移るにも、はっきりした具体的期日が確定されず、プランできない。
次に進めない。
未来が見えない。
絶望感に打ちひしがられる。

そんな悲惨なことで はないが、わたしは個人的にそれに近い心境、、、

今は引きこもって、自然治癒を目指している。


NHKで、「実家のモノ屋敷をどうかしたい」特集をやっていた。
親世代は、「もったいない志向」が高く、モノを捨てられず、モノで溢れかえる実家。

しかし、わたしは思う。
子供は実家から自立して出て行っているのだから、自分が居なくなった実家を自分の好みに変えようなどと、おこがましい。

親が他界したり、病気になったり、実家に自分が通ったり、他人を入れなければならなくなったなら、いざ知らず。
そうでもなく、子育てが終わって、子供たちが出ていって空いた部屋にモノをどんどん溜め込んで、なにが悪い?
ある意味、趣味の部屋のようなもの。
部屋の中にモノを溜めることで、同居もしていない子供や、ご近所や自治体に迷惑かけているか?
(モノ屋敷住民であるわたしの、逆ギレ反論)


断捨離ブームは、戦前、戦中派の、モノのなかった時代を切り抜けた親世代と、モノが溢れる戦後世代との価値観が合わないため、新価値観を提言するため、起こったものだと推測する。

その「もったいない派」は、今は超高齢になり、おそらく権力はないだろう。
一世代下の熟年世代は、ここぞとばかりに溜まりに溜まっていた鬱憤を発散するかのごとく、好きなように断捨離すればよい。

その影響を受け、二世代下の若い世代も断捨離を実践する。

時代の主流は、モノに囲まれない贅沢。が、誰も彼も断捨離こそ王道とばかりに声を大にして主張するのは、いかがなるものかと。

世代交代の後に、自分が好きなように断捨離すればよい。
世代交代もしていない、さらに同居もしていない、家計も別々なのに、人の暮らしに口を出すな、と言いたい。

番組によると、実家のガラクタ不用品の中にお宝が埋まっているそうで、昨今、売買が盛んに行われているらしい。
モノも片付き、お金も入り、買った人にも喜んでもらえる、ということで、一石三鳥だとか。
まあ、確かにそれはそうだが。
本当は断捨離を強く願っていても腰が重くてエネルギー不足の親世代には、背中を押してくれる良いきっかけになる。


ちなみに、わたしのガラクタは、ランク付けされている。
ほとんどが、わたし以外の人にとっては、全くのゴミ。
が、換金率のかなり高いものもある。
ゴミの中には至宝が埋まっている。
宝探しゲームにはもってこいだが、遺族泣かせではある。

なので、最近は、ある程度先に行われるであろう断捨離を楽しみにしている。
ゴミか、宝か、二者選択ならカンタンだが、問題は、その中間。
ほとんどのものが、そのボーダーラインに属する。
(といっても、お宝以外は、わたし以外の人にとってはゴミなので、仕分け作業はシンプルだろう)

客観的にはゴミ、主ノ。
そのギャップの大きさで、断捨離のスピードは左右される。
自分の小学生の頃の新古品ハンカチを取っておいているようなわたしは、モノ信仰シンドローム、重度の病を抱えている。
95歳で亡くなった、義姉のお姑さんの遺品である新古品ハンカチまで引き取ってしまっている。
まあ、ハンカチは、カサが低いので、全部合わせてもどうってことはないが。

わたしのモノ信仰。
モノには魂が宿っている。
言霊は、言葉に魂が宿るのと同様に。
モノに対する執着心が人一倍強い。
しかし、なんでもかんでも、ではない。
ゴミは、仕分けし、生活ゴミや、プラ、瓶・缶は自治体回収日に、ちゃんと捨てる。
古着、古紙は子供会廃品回収日に出し、アルミ缶は、自治会の老人会に寄付する。
自治体にお金を払って捨てる大型不用品もある。
(市民としては当たり前。
わざわざ文字数を使って説明するようなことではないが、、、)

わたしは、モノの思い出が強烈に鮮明にインパクトが強く残っている。
モノを愛でるのである。
わたしのお気に入りのモノたちには、絶対にわたしの魂が宿っていると思われる。
が、わたしのバッテリーがなくなった日には、換金性の高いお宝以外は、全て捨てると良い。
PR

コメント

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

カテゴリー

P R